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かつ、と磨かれた床に低く靴音が響く。
冥界の王である牛魔王は、最小限に抑えられた照明の下、一人玉座で思索に耽っていたようであった。
薄暗い空間を迷いなく御前に進み出て頭を垂れる。
「お呼びでしょうか、父上」
声をかけることで、感情を含まない赤い瞳だけが動き、こちらをとらえる。
すべてを支配する冥王は、静かにたった一言だけを口にした。
「……ここに」
「はい」
簡潔に返事をして父上の傍らに立つ。
こうして呼ばれることはよくあった。
特に何かを命じられるわけではなく、ただ、側近く控えてその日を終える。
理由を尋ねたことはない。
父の命に、俺は理由を必要としない。
何より、こうして近くで強大な冥王の力を感じているのが、俺は好きだった。
焦がれてやまない、この美しい力。
それは俺の存在理由<レーゾンデートル>だ。
愛する唯一の者よ、ぼくはあなたの憐れみを切に願う
わが心の陥ちた暗い深淵の底から。
そこは鈍色の地平に囲まれた陰鬱な世界、
恐怖と冒涜が暗夜の中に漂っている
ボードレール
暗黒の淵の落とし子
SIDE:紅孩児
あの瞬間が訪れるまでの記憶というのは酷く曖昧で、思い出そうとすればまるで他人事のような白々しさを感じる。
『紅孩児』が生まれたのは、この体がこの世に生まれ落ちた時ではなかった。
妖怪の誕生には二通りある。
一つは人間と同じように母の胎内から生まれる場合。
そしてもう一つ。妖怪が大量に殺された場所に溜まった憎しみ、苦しみ、無念の怨嗟、つまり過剰な陰の気が形になった場合。
前者ならば、親の強さ、後者ならばより多くの負の感情がその妖怪の潜在能力を決めることになる。
俺は、後者だった。
親は存在しない。
深淵が俺を生んだ。
自然界においての『子供』は、そこに暮らす多くの生き物にとって『ごちそう』である。
前者の場合なら親に外敵から守ってもらえるが、後者は当然生まれ落ちてすぐ生命の危機にさらされることになる。
一つの命が生まれるほどの陰気の溜まった場所ということはつまり、妖怪たちが好み、集う場所でもある。
俺は、生れ落ちたその瞬間から、たった一人で我が身を守らなくてはならなかった。
生きる死ぬの定義も知らない自分を動かしたのは、本当に単なる本能だ。
襲い掛かられても恐怖はない。
ただ、奪われまいと殺した。
空腹を感じ、それらを喰らった。
やがて周りにいた妖怪どもは、容易に俺を殺せないことがわかると、近寄ってこなくなった。
だから、腹を満たすためには獲物を探さなくてはならなくなった。
楽しくも、悲しくも、辛くも、寂しくもない。
誰からも教えられぬ感情は生まれることはない。
俺はただ、頭を失っても脊椎反射で動く蛙のように、反射的に殺し、食らった。
生きている、と表現するにはあまりにも無機的な日々だったように思う。
そんなある日、雨が降った。
生まれて初めての雨だった。
まとわりつくようなそれは、まるで『獲物』を殺した時に降りかかる液体のように不快で、これはいつ終わるのだろうかと、ただ座り込んで天を仰いでいた。
空腹を感じていたが周囲に『獲物』の気配はなく、探しに行く気力も雨に削がれるまま。
どれくらいそうしていたのか。
『それ』は、唐突に訪れた。
それが目の前に現れた瞬間のことを、表現することは容易ではない。
白と黒で構成された画面に色がついたように、霧が晴れて視界が鮮明になったかのように、自分を取り巻く世界が変わった。
俺は初めて『自分の存在』を認識したのだ。
総身が震える。
恐かった。
変わることが。
終わることが。
始まることが。
『自分は生きている』という事実が。
「 」
それは、何かを言った。
何を言われたか、よくわからずに聞き返した。
俺は、自分が喋れる事実を知る。
それまで『獲物』にしてきた妖怪も、きっと何かを喋っていたはずだが、言語として認識した覚えはない。
「俺を……殺すのか」
反射的に出た言葉に、それは笑った。
『悪くない声だ』と言ったその声が、何故か心に残った。
後から思えば不遜極まりないが、このとき俺は『これも自分と同じだ』などと考えた。
たった一人で。ただ生きているのだ、などと。
『死にたがっている者の目だ』
などと言った男の方が、余程終わりを望んでいるように、見えた。
「……死にたいのか」
戯れに向けられた殺気。
これが、自分を殺す。
俺が『獲物』にしてきたように、体を裂かれ、喰らわれる。
この存在の一部になれる。
……それは、なんと甘美な誘惑か。
ゾクリと、恐怖でない何かが湧き上がり、酷く喉が乾いた。
その感情が何なのかがわからず、「そうなのかもしれない」と曖昧に返せば、それはまた笑った。
『強くなれば殺してやる』と。
また、自分の下で生きろとも言った。
男の意図がわからずに、聞き返した俺に与えられたのは返答ではなかった。
「紅孩児。……それがお前の名だ」
こうがいじ
……紅孩児。
頭の中でその響きを何度も反芻する。
その音は、言葉に形があるように、そしてかつて失った自分の一部であるかのように、俺の中に静かに降りてきて、ぴったりと馴染んだ。
男は、いつまでも音の余韻を追っている俺を見下ろして、く、と口角を上げた。
「その格好では、とても我の城には入れられんな」
当時、言葉の意味をきちんと把握していたわけではないが、相手の雰囲気から大体何を言われているかを察し、自らを見下ろした。
返り血と泥と雨にまみれ、寒さをしのぐため死体から、殺す時に自分で裂いてしまった服をひっぺがしそれを適当に纏っていただけの自分は、この雨の中濡れることもなく高貴に佇む相手とあまりに対照的だった。
よくもまああんな汚れた生き物に声をかけたものだと、長じて後に父上の器の大きさに感動したくらいだ。
だが、その時の俺にはどうしようもなく、言われたところでただ困るだけだった。
逡巡し、どうしたらいいのかと口を開きかけた時、力が動いた。
静かな、力だった。
なんだかわからず思わず閉じた目を開けば、汚れは消え去り、上等な衣服が身を包んでいて、驚いて男を見上げた。
しかし、見上げた先も、僅かに驚きの表情をたたえていて。
「……ほう。一体どんな鬼子があらわれるかと思えば……」
「?」
言葉の意味を問う前に、ばさりとマントにくるまれた。
近付いたあたたかさを不思議に思ったのを覚えている。
『紅孩児』はあの時に生まれたのだ。
「紅孩児」
呼ばれて、意識が現実へと引き戻される。
「何を考えている」
心を読まれたかのような問いかけに、内心苦笑した。
別段隠すようなことではないので素直に答える。
「……父上、貴方のことを」
「……そうか」
やや可笑しそうに、そして満足げに細められた隻眼が、あの日『強くなれば殺してやる』と笑った時の表情と重なった。
俺に生を与え、死を与える絶対の存在。
貴方だけが俺の世界に色をくれる。
『紅孩児』を支配することが出来る、ただ一人の、王。
SIDE:牛魔王
「父上、貴方のことを」
戯れに口にした『何を考えている』という問いに、この牛魔王のただ一人の息子は、静かに笑んでそう答えた。
考えたり、迷ったりすることはなく、ただ簡潔に。
それがあまりにも澱みなかったので笑ってしまった。
短いやりとりの後、空間には再び静寂が降りる。
こうした時にこの男がまとう気配は、音もなく降る雨のようだと、いつも思う。
本人が司る炎の熱さとは正反対の、静かな気配を側に伴うことは心地よかった。
特に用もなく呼びつけても、紅孩児は余計なことを聞かない。
盲従とも言えるほどの忠心は、紅孩児の出自を考えれば不自然なほどだ。
正確な年月は覚えていないが、紅孩児を見つけた時のことはよく思い出す。
『その森に足を踏み入れた妖怪は戻ってこない』
最近、そう噂される場所があるのだという話を耳にして、興味を引かれて足を向けた。
その場所とは、昔我が幾多の妖怪を殺戮した場所だったからだ。
降りかかる火の粉を払っただけに過ぎず、殺害した者達への罪悪感などがあるわけではない。
ただ我には、とある予感があった。
その日は珍しく雨が降っていた。
月明かりしかない冥界の空を雨雲が覆い隠し、相当暗い日だったことを良く覚えている。
あたりは静まり返っていた。
雨音のみが支配する空間に『それ』はいた。
遮るものなどない場所で、雨に打たれながらただぼんやりと座り込んでいる。
周囲には生きて動いていたことが想像できない有様に成り果てた『かつて妖怪だったもの』が点々としている。
『それ』からは大きな力を感じなかった。
殺意も、憎悪もない。
色を感じない無垢な魂が、まるで雨音のように静かに、ただそこに在った。
何故か、その姿を見ただけで確信した。
……これは、あの時に生まれたものだと。
我が殺した妖怪たちの怨嗟から生まれたのだ。
生かしておけば敵になるやも知れぬ。
周囲の噎せ返るほどの死臭。
もう既にかなりの量の妖怪から力を奪い、吸っているようだ。
今ここで殺してしまうか。
並の低級妖怪などでは歯が立たぬだろうが、我からすればまさしく『赤子の手をひねるようなもの』。
しかしそれはそれでつまらない。
どうしたものかと思案していると、
『それ』は我に気付き、目に見えるほど震えた。
殺していたはずの我の殺意を感じ取り、逃亡も殺害も叶わぬことを一瞬で悟ったようだ。
だが、その瞳に諦観は浮かんでいない。
自然と笑みが浮かぶ。
……これは『本物』だ。
殺すのはやめた。
側に置き、その力を伸ばし、そしていつかこれが真実を知ったときにどうするか…。
…そこで殺されるなら我もそこまでの器。
今はまだ何の正負も映さぬこの瞳が憎しみに染まるのを見るのも、それはそれで面白いのではないか、と……、
「思っていたのだが、な」
「……父上?」
「……紅孩児、お前は自分が生まれた場所のことを知っているか?」
唐突な下問の意味を図りかねて首を傾げた紅孩児の返答を待たずに、言葉を続ける。
「あの場所は、昔我が大量に同胞を屠った場所だ。お前は我への怨嗟の声から生まれた。
身の裡が騒ぐことはないか?我を殺せ、と」
知っていたのだろう、紅孩児は取り乱すこともなく「いいえ」と静かに首を振った。
「妖怪にとって、父上、貴方の力は祝福そのもの。
怨嗟は賞賛であり、憎悪は貴方への憧憬。
私はそのような場所で生まれたことを誇りに思っています」
迎合でも追従でもない、真実の言葉。
初めて見た時となんら変わらぬ瞳。
自分の目に狂いはなかったと喜ぶべきなのか、期待が外れたと落胆するべきなのか。
だが、悪い気分ではなかった。
媚び諂いと無縁の言葉は、常に我の支配欲を満たす。
満足して目を閉じる。
心地良い倦怠に身を委ねれば、どこかで雨音を聞いたような気がした。